チェンマイ大学での貢献(5):伊藤信孝 チェンマイ大学客員教授・工学部
ボランテイアで院生に英語の講義(図 ⑪)
グローバル化」に伴いグローバル言語としての英語の重要性が高まりつつある。英語能力の向上は海外留学を目指す学生にとっては必要十分条件の一つである。特に大学院生にとっては在籍中に1~2度は国際学会での研究論文・口頭発表及び前刷り集への投稿がほぼ必修である。最も重要な事項としては英語でどこまでコミュニケーションが図れるかと言う能力が問われる。 一般に博士課程で学位を取得する時には、1~2編の閲読制度のある国際学会誌又は論文集に投稿して受理・刊行されていることが大体の基準である。博士の学位は昔と異なり運転免許証に準ずる形の理解に成っている。すなわち長年掛けてライフワークとして積み上げた研究成果に対する評価ではなく、研究者として研究遂行能力が有るかどうかという認定を行うものであり、論文の内容が優秀で有ることは重要であるが基本的に研究者としての研究遂行能力(資格)を持ち合わせているかを認定する形になりつつある。学位取得後に安心して研究業績が上がらない例が多いことも衆知のことである。この場合、目的が学位取得であり、その後の展開に何ら目的を有しない学位取得者がこのような姿勢に成ることが多い。現在の一般的標準から言えば、英語でのコミュニケーションが可能であることはグローバル・エンジニアとして必須条件の一つでもある。それだけに研究者を目指す院生に取っては語学習得に相当の努力を要するが、それだけに国際学会に類するイベントも多く、その気になればいくらでもその機会をつかむことが出来る。あくまでも準備が出来ていることが前提条件となる。日頃の蓄え(ストック)が大切である。 こうした背景もあって、工学部の院生(主として修士課程)の数人が、自らの意志で、英語を教えて欲しいと申し出てきた。請われて断る必要も理由もないので快諾し、週に一度90分の講義をすることで快諾した。内容はCurriculum Vitaeの作成、求人応募に於ける必要書類の発送にからむカバーレターの書き方、英語とその他の外国語の世界地理的分布、講演資料の作成・講演発表の実施、日本の大学の教育制度の紹介、などである。毎週かなり順調に経過したが、やはり文化の違いもあり、また個人各位の予定や研究の都合によって出席がまばらとなってきた。それはそれとして容認できるが、問題は不都合について事前に連絡をしてこないことである。時間通り早くから出かけても誰も来ないとか、来ても一人であるとか、他の者はどうしたのかと尋ねると知らないと言う。毎回講義への出欠を確認して記録に残している。この目的は参加学生の評価ではなく、どこまでその学生が進展したかの確認と出席率との相関を見ることであり、記録を顧みることで「こんなにもやったのか」と言う事から生じる自信を学生に持たせることである。目標もなく、だらだらと継続するだけでは意味がない。効果を確認し、自信を待たせて次のレベルに引き上げる行程が必要と考える。ほぼ12~13回程継続したが、学生個々の都合や研究上の行事が理由で取りやめることとなった。当初開講を希望した学生の一人が短期間ではあるが海外留学をすることになったことも一因かと推測する。
● クンユアム慰霊碑建立
大東亜戦争で日本軍がインパール作戦を挙行し、派兵された多くの日本兵が飢えと病に侵されミャンマー(ビルマ)から国境を越えてタイ側に逃れてきた。兵士達は食料もなく、持てる物をすべて金に換えて食料を購入して耐えたが、その多くは祖国の土を見ることなく力尽きて異国の地で命を落とした。村の至る所に兵士の死体があったと当時を知る高齢者が語ってくれた。クンユアムはメホンソンから更に奥へビルマとの国境に位置する地域であり、ここには沢山の日本の敗残兵が集まってきた。現地の人は親切に、また暖かく彼らを迎え、時には一緒に農地を耕し作物を栽培・収穫したと言う。工学部長の義父がメホンソンの出身であり名前の通った立派な名士であり、その知人(日本人)が代表を務める日本の団体がこの地に慰霊碑の建立を計画しているとの情報を得たのは2年前のことであった。やはり国際的な事になると相互のコミュニケーションが十分に、また迅速にとれることが重要、かつ必要である。そうしたことから仲立ちとなり、相互の意思の疎通を円滑にする事に一役買って出ることになった。即ち日本からのメールは日本語で、その日本語を英訳してタイ側に伝えるyくめで有る。これまでにも本計画は「浮上しては消え、また浮上しては消える」を繰り返し、計画が実現することはなかった。いつの間にか当初の熱い思いにもかかわらず10年近い月日が流れたと聴く。しかし学部長の義父や学部長自らの献身的協力と努力により、かつては野戦病院があったクンユアムのムアイトウ寺院の中に慰霊碑建立の許可を頂きようやく慰霊碑建立が完成した。竣工式には日本からも20名弱の賛同者が参席してタイ式の式典が挙行された。この慰霊碑は日本兵の慰霊のみならず世界平和を祈念する事にその趣旨がある。この寺院の正門外の道を挟んで今ではタイ政府が立派な博物館を建立し、その建物の一部にかつての日本兵の遺品や思い出の品が格納されている。作りかけの飛行場も草の生えた滑走絽を残しているが飛行機が飛び立つことはなかったと言う。おもしろいのは旧戦争博物館と呼ばれる、朽ちかけた小さな建物の外に、放置されたジープが野ざらしでおいてあった。米軍の物だろうと言われボンネットを開けて見ると日本のいすずのエンジンが搭載されていた。何故それがそこにあるのか、経緯の程はわからぬが、ベトナム戦争当時の物ではないかと誰かが説明を加えた。腑に落ちないが、誰も知らないから頷くしかなかった。理由の如何を問わず、戦争の悲劇を起こさない事は重要である。同時に戦争で命を落とした兵士達の慰霊と鎮魂も同じように大切である。それにもまして寺院の一隅を慰霊碑建立に御都合頂いたムアイトウ寺院と檀家村民の寛大な心に感謝したい。言うまでもなく村民、地方自治体と寺院の仲立ちとなり、幾度となく現地を訪れ、交渉に尽力頂いた工学部長の義父と工学部長の労には言葉がない。この計画に参画できたこと、微力ながら建立完成にこぎ着けることが出来たことを素直に喜び誇りに思う。
あとがき
ホームページが新しく改装される時期に呼応して、原稿を手元にじゅんびできなかった関係もあって、参加活動事業に時期的なずれがあることを容赦願いたい。ここでは大学の事業と会員個人としての活動の一端を紹介した。
グローバル化」に伴いグローバル言語としての英語の重要性が高まりつつある。英語能力の向上は海外留学を目指す学生にとっては必要十分条件の一つである。特に大学院生にとっては在籍中に1~2度は国際学会での研究論文・口頭発表及び前刷り集への投稿がほぼ必修である。最も重要な事項としては英語でどこまでコミュニケーションが図れるかと言う能力が問われる。 一般に博士課程で学位を取得する時には、1~2編の閲読制度のある国際学会誌又は論文集に投稿して受理・刊行されていることが大体の基準である。博士の学位は昔と異なり運転免許証に準ずる形の理解に成っている。すなわち長年掛けてライフワークとして積み上げた研究成果に対する評価ではなく、研究者として研究遂行能力が有るかどうかという認定を行うものであり、論文の内容が優秀で有ることは重要であるが基本的に研究者としての研究遂行能力(資格)を持ち合わせているかを認定する形になりつつある。学位取得後に安心して研究業績が上がらない例が多いことも衆知のことである。この場合、目的が学位取得であり、その後の展開に何ら目的を有しない学位取得者がこのような姿勢に成ることが多い。現在の一般的標準から言えば、英語でのコミュニケーションが可能であることはグローバル・エンジニアとして必須条件の一つでもある。それだけに研究者を目指す院生に取っては語学習得に相当の努力を要するが、それだけに国際学会に類するイベントも多く、その気になればいくらでもその機会をつかむことが出来る。あくまでも準備が出来ていることが前提条件となる。日頃の蓄え(ストック)が大切である。 こうした背景もあって、工学部の院生(主として修士課程)の数人が、自らの意志で、英語を教えて欲しいと申し出てきた。請われて断る必要も理由もないので快諾し、週に一度90分の講義をすることで快諾した。内容はCurriculum Vitaeの作成、求人応募に於ける必要書類の発送にからむカバーレターの書き方、英語とその他の外国語の世界地理的分布、講演資料の作成・講演発表の実施、日本の大学の教育制度の紹介、などである。毎週かなり順調に経過したが、やはり文化の違いもあり、また個人各位の予定や研究の都合によって出席がまばらとなってきた。それはそれとして容認できるが、問題は不都合について事前に連絡をしてこないことである。時間通り早くから出かけても誰も来ないとか、来ても一人であるとか、他の者はどうしたのかと尋ねると知らないと言う。毎回講義への出欠を確認して記録に残している。この目的は参加学生の評価ではなく、どこまでその学生が進展したかの確認と出席率との相関を見ることであり、記録を顧みることで「こんなにもやったのか」と言う事から生じる自信を学生に持たせることである。目標もなく、だらだらと継続するだけでは意味がない。効果を確認し、自信を待たせて次のレベルに引き上げる行程が必要と考える。ほぼ12~13回程継続したが、学生個々の都合や研究上の行事が理由で取りやめることとなった。当初開講を希望した学生の一人が短期間ではあるが海外留学をすることになったことも一因かと推測する。
● クンユアム慰霊碑建立
大東亜戦争で日本軍がインパール作戦を挙行し、派兵された多くの日本兵が飢えと病に侵されミャンマー(ビルマ)から国境を越えてタイ側に逃れてきた。兵士達は食料もなく、持てる物をすべて金に換えて食料を購入して耐えたが、その多くは祖国の土を見ることなく力尽きて異国の地で命を落とした。村の至る所に兵士の死体があったと当時を知る高齢者が語ってくれた。クンユアムはメホンソンから更に奥へビルマとの国境に位置する地域であり、ここには沢山の日本の敗残兵が集まってきた。現地の人は親切に、また暖かく彼らを迎え、時には一緒に農地を耕し作物を栽培・収穫したと言う。工学部長の義父がメホンソンの出身であり名前の通った立派な名士であり、その知人(日本人)が代表を務める日本の団体がこの地に慰霊碑の建立を計画しているとの情報を得たのは2年前のことであった。やはり国際的な事になると相互のコミュニケーションが十分に、また迅速にとれることが重要、かつ必要である。そうしたことから仲立ちとなり、相互の意思の疎通を円滑にする事に一役買って出ることになった。即ち日本からのメールは日本語で、その日本語を英訳してタイ側に伝えるyくめで有る。これまでにも本計画は「浮上しては消え、また浮上しては消える」を繰り返し、計画が実現することはなかった。いつの間にか当初の熱い思いにもかかわらず10年近い月日が流れたと聴く。しかし学部長の義父や学部長自らの献身的協力と努力により、かつては野戦病院があったクンユアムのムアイトウ寺院の中に慰霊碑建立の許可を頂きようやく慰霊碑建立が完成した。竣工式には日本からも20名弱の賛同者が参席してタイ式の式典が挙行された。この慰霊碑は日本兵の慰霊のみならず世界平和を祈念する事にその趣旨がある。この寺院の正門外の道を挟んで今ではタイ政府が立派な博物館を建立し、その建物の一部にかつての日本兵の遺品や思い出の品が格納されている。作りかけの飛行場も草の生えた滑走絽を残しているが飛行機が飛び立つことはなかったと言う。おもしろいのは旧戦争博物館と呼ばれる、朽ちかけた小さな建物の外に、放置されたジープが野ざらしでおいてあった。米軍の物だろうと言われボンネットを開けて見ると日本のいすずのエンジンが搭載されていた。何故それがそこにあるのか、経緯の程はわからぬが、ベトナム戦争当時の物ではないかと誰かが説明を加えた。腑に落ちないが、誰も知らないから頷くしかなかった。理由の如何を問わず、戦争の悲劇を起こさない事は重要である。同時に戦争で命を落とした兵士達の慰霊と鎮魂も同じように大切である。それにもまして寺院の一隅を慰霊碑建立に御都合頂いたムアイトウ寺院と檀家村民の寛大な心に感謝したい。言うまでもなく村民、地方自治体と寺院の仲立ちとなり、幾度となく現地を訪れ、交渉に尽力頂いた工学部長の義父と工学部長の労には言葉がない。この計画に参画できたこと、微力ながら建立完成にこぎ着けることが出来たことを素直に喜び誇りに思う。
あとがき
ホームページが新しく改装される時期に呼応して、原稿を手元にじゅんびできなかった関係もあって、参加活動事業に時期的なずれがあることを容赦願いたい。ここでは大学の事業と会員個人としての活動の一端を紹介した。